山が豊かであり、川が豊かである
四万十川の名称の由来、第3弾です!
しまんトロッコの中で、私たちガイドも知っている範囲でお話ししています。
きょうは、四万十川沿いの山々が大きくかかわっている、という由来のお話です。
四万石の木材を十回流送するほど山が豊かである、川が豊かである
山と山の間を縫うように流れる四万十川。
人々は山々の木材を切り出し、その木材を川に流し下流へとはこんでいました。
四万石の木材を十回流送するほど、山が豊かである、川が豊かであるから、四万十川になったという説が、このことから生まれました。
難所とされる瀬里(せり)轟(とどろ)と、三島の瀬
旧大正町の、瀬里(せり)轟(とどろ)という地域には、どうどうと白いしぶきをあげながら流れる場所があります。
大きな岩山がそびえ立ち、そこだけは木材を流すことはできない場所でした。
木材をいったん川からあげて陸路、つまり馬で運んでいたそうです。
私の知り合いの70代の方のお父さんは、当時、馬を引いて丸太の木材を運ぶ仕事をしていたとのこと。
とても力持ちのお父さんだったそうです。
木材を陸路から再び川に戻した後は、筏師の仕事です。
旧十和村の三島には、中州を挟んで流れが二手に分かれる箇所があります。
一方は流れが小さく木材を流すことができず、もう一方の流れは3つの急な瀬があり、とても危険な箇所でした。
筏師たちは、三島の中州にあった三島神社で、旅の安全を祈願をしてから、一ノ瀬、二ノ瀬、三ノ瀬と下って行ったそうです。
三島から少し下ったところに、小野という地域があります。
小野には最盛期に60人から70人の筏師(いかだし)が住み、下流へと流す仕事をしていました。
筏師はどうやって、木材を流していたのでしょうか?
京都の保津川での、丸太で筏を組んで流していた様子を知る貴重な映像が、you tubeにありました。
きっと、こんな風に職人の技で流していたのではないでしょうか。
四万石の木材を十回流送するほど川が豊かである、山が豊かであることから、四万十川になったという説でした。
今も、山が豊かであり川が豊かであるよう努めていくことが、私たちの大事な仕事であると思います。
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