牧野富太郎博士の赭鞭一撻(しゃべんいったつ)と結網子(けつもうし)とは?

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牧野富太郎の「赭鞭一撻」「結網子」 『らんまん』トピック
牧野富太郎の「赭鞭一撻」「結網子」

牧野富太郎博士の、赭鞭一撻しゃべんいったつ結網子けつもうしとはどういう意味でしょうか。

すごく難しい漢字ですよね。

調べてみると、これらは漢語に由来していました。

牧野博士の確固たる決意や、自分はこうありたいという強い思いが込められています。

赭鞭一撻とは、牧野富太郎博士が若い頃(18歳~20歳)、植物学を真剣に志すにあたり書き記した15の心構え・心得のことです。

結網子(けつもうし)牧野博士の号です。

本名とは別に、書や創作物などに使用する名前です。

雅号、芸号ともいいます。

牧野博士は、好んで結網子を号として使用されています。

牧野博士が生涯にわたって実践した赭鞭一撻と結網子について、もう少し詳しく見ていきましょう。

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赭鞭一撻(しゃべんいったつ)の意味

赭鞭とは赤いむちのことです。

もとは中国晋の時代の書物「捜神記そうじんき」の中に出てきます。

古代中国の伝説の帝王・神農しんのうが赤い鞭で草をはらい、それをなめて役に立つ植物かどうか確かめたという逸話に由来しています。

また江戸時代には富山藩主に前田利保という武士がいました。

利保は本草学を好み、旗本や幕臣たちとともに「赭鞭会」という本草学の会を作って、植物を学んでいたとされています。

牧野博士は幼少の頃から寺子屋や塾に通い故事漢語に親しんでいました。

これらのことも学んでいたのでしょう。

植物の研究に邁進した牧野博士らしい心構えです。

博士は自叙伝で赭鞭一撻について、以下のように触れられています。

左の一篇は私が年少時代にわが郷里土佐高岡郡佐川町の自宅に於てその当時私の抱懐していた意見を書き附けたもので、「赭鞭一撻題」としてあった。

牧野富太郎 自叙伝

十五の心構え

牧野博士の「赭鞭一撻」ノート:牧野植物園で購入

牧野博士の「赭鞭一撻」は少し難解です。

牧野植物園で販売されているA5サイズのノートに、分かりやすく現代語訳が掲載されていましたので引用させていただきます。

一、忍耐を要す
━我慢することが必要である━
何事においてもそうですが、植物の詳細は、ちょっと見で分かるようなものではありません。行き詰まっても、耐え忍んで研究を続けなさい。

二、精密を要す
━正確であることが必要である━
観察にしても、実践にしても、比較にしても、植物を説明する文を作成するにしても、不明な点、はっきりしない点があるのをそのままにしてはいけない。いい加減で済ますことがないように、とことんまで精密を心がけなさい。

三、草木の博覧を要す
━草や木についての豊かな知識が必要である━
材料(草木)を多く観察しなさい。そうしないで、少しの材料で済まそうとすれば、知識もかたより、不十分な成果しか上げられません。

四、書籍の博覧を要す
━たくさんの本を読むことが必要である━
本に書いてあることは、昔から今まで世界中の学者の研究の結実です。出来得る限り多くの本を読み、自分自身の血とし肉とし、それを土台に研究しなさい。

五、植学に関係ある学科は皆学ぶを要す
━植物に関係ある学科は全て学ぶことが必要である━
植物の学問をする場合、物理学や化学(例えば光のせいで茎が曲がったり)、動物学(花粉を運ぶ蝶)、地理学(どこで、どんな植物が生えるか)、農学(有用植物の場合)、画学(植物画を描く場合)、文章学(植物を文章で表現する説明文)など、ほかの関係の学問も勉強しなさい。

六、洋書を講ずるを要す
━洋書を理解する必要がある━
植物の学問は日本や中国よりも、西洋の方がはるかにに進んでいるので、洋書(西洋の本)を読みなさい(日本語や漢文の本ではだめです)。ただし、それは現在の時点においてそうであって、永久にそうではない。やがては我々東洋人の植物学が追い越すでしょう。(明治の初め頃の話)

七、(まさ)に画図を引くを学ぶべし
━理屈に合った図画技法の勉強をしなさい━
学問の成果を発表するには、植物の形や様子、生えている環境などを描写するのに最も適した画図の技法を学びなさい。他人に描いてもらうのと、自分で描くことは雲泥の差です。それに加えて練られた文章の力を借りてこそ、植物について細かくはっきりと伝えられます。

八、(よろ)しく師を要すべし
━状況に応じた先生が必要である━
植物について疑問がある場合、本だけで答えを得ることはできません。誰か先生について、先生に聞く以外ありません。それも一人の先生ではだめです。先生と仰ぐのに年の上下は関係ありません。分からないことを聞く場合、年下の者に聞いては恥だと思うようなことでは、疑問を解くことは死ぬまで不可能です。

九、(りん)財者は植物学たるを得ず
━植物学者は、ケチではいけない━
以上述べたように絶対に必要な本を買うにも、(顕微鏡のような)器具や機械を買うにも金が要ります。けちけちしていては植物学者になれません。

十、跋渉(ばっしょう)の労を(いと)ふなかれ
━方々の山野を歩きまわる努力を嫌がるな━
苦労をいとわないで植物を探して山に登り、森林に分け入り、川を渡り、沼に入り、原野を歩き廻りしてこそ、新種を発見でき、その土地にしかない植物を得、植物固有の生態を知ることができます。しんどいことを避けてはだめです。

十一、植物園を有するを要す
━植物園が必要である━
自分の植物園を作りなさい。家から遠い所の珍しい植物も植えて観察しなさい。鑑賞植物も同様です。いつかは役に立つでしょう。必要な道具ももちろんです。

十二、博(ひろ)く交を同に結ぶべし
━多くの同好者と友達になりなさい━
植物を学ぶ人を求めて友人にしなさい。遠い近いも、年齢の上下も関係ありません。お互いに知識を与えあうことによって、偏りを防ぎ、広い知識を身につけられます。

十三、迩言(じげん)を察するを要す
━ 一般の人が使う名前や呼び名から推測することも必要である━
職業や男女、年齢のいかんは植物知識に関係ありません。植物の呼び名、薬としての効用など、彼らの言うことを記録しなさい。子供や婦人や農夫らの言う、ちょっとした言葉を馬鹿にしてはなりません。

十四、書を家とせずして、友とすべし
━本に書かれていると安心せずに、本を対等の立場の友と思いなさい━
本は読まなければなりません。しかし、書かれていることがすべて正しいわけではないのです。間違いもあるでしょう。書かれていることを信じてばかりいることは、その本に安住して、自分の学問を延ばす可能性を失うことです。新説をたてることも不可能になるでしょう。過去の学者のあげた成果を批判し、誤りを正してこそ、学問の未来を明るくすることでしょう。だから、本(とその著者)は、自分と対等の立場にある友人であると思いなさい。

十五、造物主あるを信ずるなかれ
━神を信じてはいけない━
神様は存在しないと思いなさい。学問の目標である真理の探究にとって、神様がいると思うことは、自然界の未だ分からないことを、神の偉大なる摂理であると考えて済ますことにつながります。それは、真理への道をふさぐことです。自分の知識の無さを覆い隠す恥しいことです。

(牧野植物園 現代語訳)
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結網子(けつもうし)の意味

結網とは、文字通り網を結うことで中国の史書「漢書」にある言葉です。

古人曰うあり、淵に臨みて魚を羨まんよりは、退いて網を結ぶに如かず

「漢書」董仲舒伝にある言葉


「淵に立って魚を得たいと願うよりは、家に帰ってそれを獲るための網を結ったほうがよい」という意味です。

頭の中で、あーだこーだと考え悩む前に、即行動!ということですね。

号に込めた思い

佐川で寺子屋や塾に通った少年・青年時代に、この言葉を知った牧野博士はこの話に感心します。

そして「結網」をみずからの号にしたとされています。

以来、結網子結網学人という号を好んで用いています。

漢書に親しみ、植物の研究のためにすぐさま行動に移す牧野博士らしい雅号です。

自分はこうありたいとの生き方が感じられます。

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まとめ

「赭鞭一撻」と「結網子」の意味を知れば知るほど、牧野博士の真っすぐで確固たる決意を感じます。

若き日の抱負「赭鞭一撻」を生涯実践し、「結網子」をモットーに植物学に邁進されました。

「赭鞭一撻」「結網子」と書かれているノートは、牧野植物園のショップや佐川町の牧野富太郎ふるさと交流館でも販売されています。

中のページは横書きの使いやすいA5サイズです。

興味のある方はぜひ購入してみてください。

私は自分の好きな言葉を書き込むノートにしています

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