植物学者・牧野富太郎博士はどんな人だったのでしょうか。
実家は、高知県の佐川にあった岸屋という酒蔵と小間物屋を営む商家でした。
いつどこで生まれ、どんな環境で幼少期や青年期を過ごされたのか。
ご結婚歴や家族構成、ご子孫などもふくめ晩年までの牧野博士の生涯と業績をまとめてみました。
幼少期
牧野富太郎博士は今から160年前、江戸時代の終わり1862年(文久2年)4月24日、高知県高岡郡佐川町(当時:佐川村)で酒蔵と小間物を営む商家・岸屋の跡継ぎとして生まれました。
父は佐平、母は久壽といい、幼名を成太郎と名付けられます。
ところが3歳の時に父の佐平が病死、その2年後、5歳の時に母の久壽が亡くなります。
そして祖父の小左衛門までも病死するという不幸が続きます。3人とも流行り病のコレラが原因だったようです。
このとき祖母の浪子は厄除けと開運の願いを込め、孫の名前を富太郎と改名しました。
浪子は祖父小左衛門の後妻となった人で、書が上手で和歌をたしなむ学問に理解のある女性でした。
血のつながりはありませんでしたが、祖母・浪子は乳母のお芳とともに幼い富太郎に愛情を注いで育てていきます。
牧野博士の幼少の頃から大成されるまでを、土佐の昔話風にアニメにした「牧野富太郎博士(1話~5話)」(佐川町作成)を、博士の生まれた高知県高岡郡佐川町にある 佐川町地場産センターで視聴することができます。とても分かりやすいです。
このDVDは佐川町内で販売されています。(¥2,000円)
※誕生日は4月26日という説もあります。
※幼名は「誠太郎」と牧野博士自身が後年まで思い違いされてたようで、戸籍は「成太郎」の記載とのことです。
幼少時の家系図
祖父・小左衛門から孫の富太郎までの家系図です。
富太郎の母・久壽は家持ちの娘で、富太郎は岸屋のたった一人の跡継ぎでした。
あだ名はハタットウ
少年時代の富太郎博士は、やせていて手足が長いことから友だちからはハタットウと呼ばれていました。
ハタットウとは郷里の方言で、バッタのことです。
顔が日本人離れしていたこともあり、「西洋のハタットウ」と言われてたようです。
自叙伝の中で自身の幼いころのことを回想し、弱々しい体が植物採集で山野を駆け巡ることで段々と健康になったと綴られています。
自然の中で植物と親しむ
両親も兄弟もいなかった富太郎は一人で遊ぶことが多く、植物を眺めるのが好きな子どもだったようです。
とくに家のすぐ裏手にある金峰神社はお気に入りの場所でした。
そこは春を知らせるバイカオウレンが咲くところです。
バイカオウレンは高さ数センチの小さな植物で、夏から冬のあいだはほかの植物の陰にひっそりと隠れています。
寒い冬を越し春が近づくと一斉に白い花びらのようなガクを開きます。まとまって咲くとまるで白い雪のように見えます。
毎年、春になると必ず咲くバイカオウレンに幼い富太郎は不思議な魅力を感じ、ことのほか愛らしく思っていたのでしょう。
バイカオウレンが植生している佐川町の金峰神社など、高知県内で見ることのできる場所をピックアップしてみました。
学問で頭角をあらわす
富太郎は10歳で寺子屋で習字を習い始めます。11歳になると伊藤蘭林の私塾で漢学や算術などを教わり、その後、蘭林が教授をしていた佐川の名教館で学びます。
名教館は土佐藩の家臣の子ども達が通う名門校であり、地理や天文、物理などの西洋の学科を学べる地元でも最高峰の学び舎でした。富太郎は英語塾にも入り英語も学んでいます。
年上の武家の子ども達に負けないくらい富太郎はメキメキと頭角をあらわします。
名教館で身に付けた学問の力は、その後の富太郎を支える土台となりました。特に漢語に長けていたことや、英語を原書で学ぶ経験が研究者としての人生に大いに役立ちます。
同じく名教館に学んだ武家出身の廣井 勇(ひろい いさみ)も、蘭林の弟子でした。
学歴は小学校中退
12歳の時、明治政府による小学校制が布かれると名教館は閉校となり、富太郎も新設された佐川の小学校に入学しました。
しかし新設された小学校で学ぶのは五十音など簡単なものばかりです。
名教館で高等教育を受けていた富太郎にとっては退屈な内容でした。結局、2年後の14歳の時に小学校を退学します。
唯一、富太郎が小学校で興味を示していたのは、文部省博物局の田中芳男氏と小野職愨氏による4枚の博物図でした。植物や動物を精密に描き分類したそれらの図を富太郎はあきることなく眺めていました。
博物図を描いた田中、小野の両氏とは、後年、東京で実際に会うことになります。富太郎の人生に影響を与えた人たちです。
小学校を退学してからの富太郎は、植物採集をしながら独学で植物について学びます。
毎日のように山を歩きまわり、気に入ったものは持ち帰って観察しながら絵を描くの繰り返しです。絵を描く技術も独学で会得していきます。
『重訂本草綱目啓蒙』
今のように図鑑のない時代だったため、植物の名前を知るには薬草の本を見るしかありません。
『重訂本草綱目啓蒙』(じゅうていほんぞうこうもくけいもう)は、江戸時代の医師・小野蘭山が千種類以上の植物の説明をした書本です。小野蘭山は、文部省博物局の小野職愨の曾祖父です。
書本は非常に高価なものでしたが、富太郎は20冊全巻を祖母に大阪から取りよせてもらい勉強しました。
書籍『牧野富太郎伝 花と恋して』(上村 登 著)の少年時代の章には、『重訂本草綱目啓蒙』が届いたときの富太郎と友人・堀見克禮少年の喜びようが描かれています。
『牧野富太郎伝 花と恋して』など富太郎博士を知る本10選をこちらで紹介しています。
ほかにも『救荒本草』(きゅうこうほんぞう)という食べられる植物を紹介した本も手に入れ、図鑑がわりにして植物の名前を覚えました。
『植学啓原』(しょくがくけいげん)という、植物を科学的に説明するそれまで見たことのない翻訳本の存在も知り、富太郎はますます興味を深くしました。
15歳の時、退学した佐川小学校校長から臨時教員になって欲しいと請われ17歳まで教壇に立ちます。
小学校を早々に退学したとはいえ、いかに富太郎が優秀であったかがこのエピソードからもよく分かります。
青年期
植物のことを知りたい、もっと学びたい!との富太郎の向学心はとどまることを知りません。
書物を読みあさり、実際の植物を観察、書物で確認、また観察しながら独学で研究を重ねる旺盛な探究心は青年期へと進みます。
永沼小一郎との出会い
小学校の教員を辞めたあと、富太郎は佐川から28km離れた高知市内の塾へ入ります。しかしコレラが高知市内で流行しはじめ、やむなく佐川へ戻ります。
この頃、富太郎は高知市で師範学校で教員をしていた永沼小一郎と出会います。
永沼は英語が達者で植物学を愛し、イギリスの植物学者ベントレーやスコットランドの医師であり植物学者であったバルフォアの本を翻訳するほどでした。
永沼は植物学の基礎を富太郎に教え、富太郎は実際の観察から得た知識を永沼に教えます。
二人はお互いを師とし友とし触発し合い、その交友は富太郎が上京したあとも続きます。
永沼小一郎との出会いは、植物学の原点であり富太郎の人生に大きな影響を与えました。
初めての上京
19歳の時、富太郎は初めて東京へ行きます。
その頃、東京では日本の産業振興を目的に第2回内国勧業博覧会が開かれていました。岸屋の跡取りとして、番頭の息子と会計係の3人で旅行することになりました。
自叙伝には博覧会の見物と書籍や顕微鏡の購入の目的があり、植物に関する収穫のあった旅行だったことが書かれています。
東京で会った博物局の田中芳男氏と小野職愨氏は、富太郎が佐川小学校で唯一、興味を示した4枚の博物図の作者です。
両氏は土佐の国からはるばる訪ねてきた富太郎を歓迎し、植物学について懇切丁寧に教授し富太郎は感激するのでした。
見物や日光での植物採集、帰りの道中での採集などを含むと、2か月ほどかけた長い旅行は富太郎にとって充実した時間であり、今後の自身の方向を決定させる転機となりました。
このころ富太郎は植物学の道に真剣に進むための心得、『赭鞭一撻』を書き記しています。
赭鞭一撻と結網子の意味について、こちらで紹介しています。
自由民権運動
その頃の土佐の国では、板垣退助を筆頭に自由民権運動が盛んにおこなわれていました。少年からおばさんまでが熱心に政治活動に身を投じており、若い富太郎も例外ではありません。
自由民権運動をおおいに宣揚していた富太郎ですが、自分は政治で身を立てるわけではなく、学問に専心し国の役に立ちたいとの思いを強くし自由党を脱退します。
牧野富太郎自叙伝にも次のように記されています。
当時は自由党が盛んで、「自由は土佐の山間から出る」とまでいわれ、土佐の人々は大いに気勢を挙げていた。本尊は板垣退助で、土佐一国は自由党の国であった。従って私の郷里も全村こぞって自由党員であり、私も熱心な自由党の一員であった。当時は私も政治に関する書物を随分読んだものだ。殊に英国のスペンサアの本などは愛読した。人間は自由で、平等の権利を持つべきであるという主張の下に、日本の政府も自由を尊重する政府でなければいかん。圧制を行う政府は、打倒せねばならんというわけで、そこの村、ここの村で盛んに自由党の懇親会をやり大いに気勢を挙げた。
牧野富太郎自叙伝
私も、よくこの会に出席した。併し後に私は何も政治で身を立てるわけではないから、学問に専心し国に報ずるのが私の使命であると考え、自由党から退く事になった。自由党の人々も私の考えを諒とし脱退を許してくれた。
二度目の上京
初めての上京から郷里の佐川に戻ったあと、富太郎は家業のかたわら高知県内の植物採集に積極的に出かけます。
『土佐植物目録』の完成を目前にして生涯を植物研究に捧げようと決めていた富太郎は、東京と郷里とを行き来することを約束して、祖母・浪子に東京へ行きたいと申し出ます。
1884年(明治17年)富太郎は22歳で植物学を志し二度目の上京を果たすことになります。
そして東京大学の矢田部良吉教授と松村任三郎助教授を訪ねて理学部植物学教室への出入りを許され、本格的に植物分類学の研究に打ち込みます。
1887年(明治20年)、25歳の時に友人と『植物学雑誌』を創刊します。
自分で植物図を描き、製版、石版印刷の技術も習得して自ら印刷をした労作でした。
続いてその翌年、『日本植物志図篇』を刊行します。
祖母・浪子の死
1887年(明治20年)富太郎が25歳の時、郷里では祖母・浪子が78歳で病死します。
浪子は祖父の後妻で血のつながりはありませんでしたが、家業の岸屋を切り盛りしながら、富太郎を幼いころから育て、支え続けた優しい祖母でした。
親友・池野成一郎
池野 成一郎は植物学を目指す東京大学理学部植物学教室の学生で、富太郎とは気の合う友人でした。
富太郎の下宿にぷらっと来ては遠慮なくごろりと横になり、両足を高く床柱へもたせ頭を下にして話すクセのある池野は、富太郎にとって気の許せる大事な仲間でした。
池野成一郎も富太郎の『日本植物志図篇』刊行や、新種の発見をするたびに我がことのように喜び、富太郎が苦境に陥った時には必ず手を差し伸べて励ますのでした。
後年、池野成一郎は大学院へと進み、日本の植物形態学の先駆者として東京帝国大学農科大学や留学先のドイツで教授などを歴任、ソテツの精子を発見するなどの功績を残しています。
結婚・二人の妻
富太郎は二度の結婚をしています。
岸屋を継ぐために、祖母・浪子が決めていた猶との結婚と、東京で本格的に研究を始めてから見初めた壽衛との結婚です。
※博士の奥様のお名前は、寿衛子が通称、戸籍上は寿衛であったとのことで、ここでは寿衛と表記しています。(参照文献:MAKINO 高知新聞社編)
岸屋を継ぐための結婚
最初の妻・猶は富太郎の従妹(いとこ)で2歳ほど年下でした。
猶は高知市内の師範学校を卒業して岸屋の家事を手伝い、富太郎が研究のために上京しているあいだも番頭の井上和之介とともに岸屋の経営を助けていました。
1887年、富太郎が家業を継いでくれることを待ち望んでいた祖母・浪子が他界すると、旦那不在の岸屋の家業はしだいに商売不振となります。
東京にいる富太郎への送金も儘ならなくなりました。
1891年、富太郎は家業の立て直しをするために帰郷します。
しかし経営は手の施しようにない状態でした。
富太郎は、岸屋のすべてを番頭の井上和之介に譲り、猶を和之介と結婚させ、岸屋から手を引きます。
井上夫妻はしばらくは岸屋を経営していましたが、まもなく廃業して佐川町で醤油屋を始めます。
のちに静岡県へ移住しました。
富太郎にとって猶との結婚は岸屋を継ぐためであり、東京での研究を許してもらうために祖母から出された条件であったかもしれません。
自叙伝の中で一人目の妻・猶について富太郎が触れている箇所はありません。
壽衛や子ども達の手前もあって、猶との結婚はあまり触れたくなかったのかもしれませんが、従妹であり幼馴染でもあった猶は、富太郎の支援者でありよき理解者だったと思われます。
晩年、猶は東京に住み2人の子どもに恵まれます。
1950年(昭和25年)に86歳で亡くなるまで、とても幸せに暮らしたとされています。
猶については後年、牧野博士の生涯に焦点をあてた様々な書籍で触れられています。
一目ぼれの恋愛結婚
上京した富太郎は岸屋からの仕送りをもらい植物研究に取り組んでいました。
ある日、菓子屋の娘に一目ぼれします。それが壽衛でした。
お酒を飲まない富太郎は甘い菓子が好きで、大学へ行く通り道の菓子屋で店番をしていた壽衛を見初めたのです。
壽衛の父は元彦根藩士小澤一政で、幼いころの一家は裕福な暮らしをしていました。しかし父の死により財産を失い、母たちと菓子屋を営んでいました。
1888年(明治20年)頃、二人は根岸に所帯を構えます。富太郎は29歳、壽衛は18歳でした。
結婚の仲人は、神田で印刷所を経営する太田義平です。
富太郎はそこで石版印刷の技術を身につけるために、1年間ほど修行しています。
自分で石版印刷機を買うほど熱心に通い詰めています。
壽衛はとてもできた女房で富太郎が研究に打ち込めるよう心を砕き、13人の子どもを育てながら家計を支えました。
そんな壽衛のことを富太郎は可憐の妻であると、自叙伝の中で感謝の気持ちを述べています。
私の妻は私のような働きのない主人にも愛想をつかさず、貧乏学者に嫁いできたのを因果だと思ってあきらめてか、嫁に来たての若い頃から芝居も見たいともいわず、流行の帯一本欲しいといわず、女らしい要求一切を放って、陰になり陽になって絶えず自分の力となって尽してくれた。
この苦境にあって、十三人もの子供にひもじい思いをさせないで、とにかく学者の子として育て上げることは全く並大抵の苦労ではなかったろうと、今でも思い出す度に可哀そうな気がする。
牧野富太郎自叙伝
日本初の偉業
所帯を持った富太郎はますます研究に取り組み、大発見や大偉業をつぎつぎと成し遂げていきます。
しかしこの後、大きな苦難と貧乏の連続が続きます。
新種の植物「ヤマトグサ」に学名をつける
1889年、富太郎は大久保三郎氏とともに、日本で初めて新種の植物に「ヤマトグサ」という学名をつけ、「植物学雑誌」第3巻第23号で発表します。
日本人が自力で学名を付けたのは画期的なことでした。
食虫植物「ムジナモ」の生息と花が咲くことを発見
さらに、1890年(明治23年)には、東京小岩にて世界的珍種の食虫植物「ムジナモ」が生息することを発見し、花が咲くことを確認しました。牧野富太郎の名は世界に知れ渡ります。
参考文献:牧野 富太郎伝に 向け た 覚書き(J stage)
苦難と貧乏
ムジナモ発見し喜びに沸いたのもつかの間、富太郎は矢田部教授から突然、それまで自由に使わせてもらっていた東京大学植物学教室の出入りを禁じられてしまいます。
学生でも職員でもない富太郎を、矢田部教授は排除しようとしました。
失意の富太郎はロシアに住む植物学者マキシモヴィッチ博士のもとへ行こうとします。
しかしマキシモヴィッチ博士が急死したことで、ロシア行きは断念せざるをえませんでした。
悲嘆にくれ落ち込む富太郎を親友の池野成一郎たちが励まし続けます。
その翌年の1891年、富太郎は家業・岸屋の整理をするために、妻の壽衛と幼い長女の園子を東京に残したまま佐川へと帰郷します。
帰郷中、富太郎を追い出した矢田部教授が突然に職を解かれ、富太郎は助手として大学に戻るよう伝えられます。
岸屋のすべてを番頭の井上と猶にゆだね、岸屋に頼れなくなった富太郎は、自分の給与のみで家族の生活費と研究費を捻出することになりました。
1893年(明治26年)の正月を郷里で迎えた富太郎に東京から訃報が届きます。幼い長女・園子が病気で命を落としたのです。
壮年期
1893(明治26)年、東京へ戻った31歳の時、東京帝国大学理科大学助手となりました。
貧乏と借金に苦しみながらの研究生活の始まりです。
『新撰日本植物図説』を刊行し、『大日本植物志』の発行など、採集や雑誌の発刊など成果をあげていきます。
1912年、50歳で東京大学の理科大学講師となります。
一般的に、植物学者は海外の大学に留学経験のある一流大学出身ばかりだった中で、牧野博士の置かれていた立場は異例中の異例でした。
博士の自叙伝にはこう書かれています。
私はむしろ学位のある人と同じ仕事しながら、これと対抗して相撲をとるところこそ愉快はあるものだと思っている
牧野富太郎自叙伝
経済的には相変わらず困難な状況でしたが、支援者からの援助を受け研究を続けていくことができました。
全国を飛びまわる牧野博士
牧野博士は日本人として国内で初めて学名をつけた新種の「ヤマトグサ」を国内の植物雑誌で発表した植物学者です。
約1500種類以上の植物を命名し、全国をめぐり収集した標本は約40万枚といわれています。
愛する妻・壽衛の死
1927(昭和2)年、65歳になって、友人たちの度々のすすめでようやく理学博士の学位を受けます。
同年12月、マキシモヴィッチ生誕百年祭に参加するために北海道へ赴き、その帰途、仙台にて新種のササを発見します。
翌年、最愛の妻の壽衛(すえ)が54歳で死去しました。富太郎は発見した新種のササに妻の名を入れ「スエコザサ」と命名しました。
妻の死後、富太郎は悲しみを紛らわせるように採集、調査、講師活動、学生指導、図鑑の発行と精力的に働きます。
晩年
牧野博士の晩年を時系列でまとめました。
- 1937年
昭12年75歳で朝日文化賞を受賞。 - 1939年
昭14年大学を辞任。78歳で研究の集大成ともいえる『牧野日本植物図鑑』を刊行。
改訂を重ねながら現在も多くの人に愛用されている。 - 1950年
昭25年88歳の時、日本学士院会員に選出。翌年、文部省に牧野博士標本保存委員会が設置され、第1回文化功労者に選ばれる。
- 1953年
昭28年東京都の名誉都民となる。 - 1954年
昭29年12月、風邪をこじらせ肺炎となり床に臥す。翌年も病に臥したままとなる。
- 1956年
昭31年病床にありながらも『植物学九十年』、『牧野富太郎自叙伝』を刊行。
同年12月佐川町名誉町民になる。
高知県五台山に牧野植物園が設立されることが決定。 - 1957年
昭32年1月18日にその生涯を終える。 - 没後文化勲章を受章。
東京都谷中墓地に葬られ、佐川町に分骨される。
- 1958年
昭33年高知県立牧野植物園が開園。
東京都立大学理学部牧野標本館、練馬区牧野記念庭園が開園。
牧野博士が亡くなった翌年、高知県立牧野植物園が開園し、東京都立大学理学部牧野標本館、練馬区牧野記念庭園が開園しました。
それぞれの施設をお元気な牧野博士が見られたら、きっと満面の笑顔を浮かべて大喜びされたことでしょう。
博士の子ども達
牧野博士は愛妻・壽衛とのあいだに13人の子どもをもうけます。
しかし長女の園子さんをはじめ7人のお子さんが早世しています。
妻の壽衛さんが亡くなったあと、四女の巳代さんと六女の玉代さんが博士の身の回りの世話をしていました。
巳代さんと玉代さんが嫁ぎ、あとを次女の香代さんと三女の鶴代さんが引きついで、博士と同居しお世話をされます。
とくに鶴代さんは父の研究を支え、富太郎の没後、膨大な資料を保存するために約4万5千冊に及ぶ蔵書を高知市の牧野植物園に寄贈し、東京都練馬区にあった家と庭の管理を東京都に委託します。
これが現在の牧野記念庭園です。
さらに『集成牧野植物図鑑』や『牧野植物随筆集』の発刊にも尽力されました。
子孫
牧野博士の次女・香代さんの息子さんで、ひ孫にあたる牧野一浡さんが会社員を退職後に練馬区立牧野記念庭園の学芸員となり、牧野博士が晩年を暮らした家と庭を守っています。
好きな食べ物
94歳の長寿を全うされた富太郎博士。
ひ孫の牧野一浡さんが講演の中で博士のお好きな食べ物を紹介されていました。
すき焼き・・お肉が大好きで、特にすき焼きがお好きだったとのこと。
トマト・・毎日のようにトマトを食べられていました。
コーヒー・・コーヒーもお好きでよく飲まれていたそうです。
赤玉ワイン・・お酒を飲まない富太郎博士でしたが、赤玉ワインはお飲みになったそうです。
まとめ
以上、牧野富太郎博士の生涯を書籍や資料、講演会等からまとめました。
植物とともに生きた富太郎博士の人生は、多くの人との出会いによって彩られています。
偶然とも必然ともいえる下記の事がらが博士の人生を方向づけ、博士自身の情熱を燃料にどこまでも真っすぐに進んで行ったのではないでしょうか。
- 自然豊かな高知県佐川町に生まれたこと
- 岸屋という裕福な家に生まれたこと
- 早くに両親をなくしてしまったけれど教養の高い祖母の浪子さんに育ててもらったこと
- 幼少の頃から学問に精進したこと
- 負けん気の強い性格で忖度をしない激しい性格だったこと
- 敵対する人物もいたがそれを上まわる理解者や支援者、ファンが全国にいたこと
- 友に恵まれたこと
- 寿恵さんという生涯の伴侶に恵まれたこと
- 娘さんをはじめ子孫のかたが博士の功績を守り続けていること
- 野山をかけめぐり体が健康で長生きしたこと
- 94歳でこの世を去るまで植物を愛し続けたこと
講演会のお話や書籍や資料から丹念に見ていくと、94歳で長寿を全うするまで植物の研究一筋で波瀾万丈の人生を送られていることが分かりました。
練馬区の公式動画「ねりまほっとライン」に、牧野博士のご生涯が分かりやすくまとられています。
牧野富太郎博士の波瀾万丈の人生は朝ドラの主人公モデルにふさわしく、地元の高知はもちろん、晩年を過ごされた東京の練馬区、全国の富太郎ファンも喜びに沸いています。
朝ドラ「らんまん」を私も全力で応援したいと思います。
参考書籍と講座・講演
『草木とともに』(牧野富太郎 著)
『牧野富太郎生誕150年記念特別展示 日本植物学の父 牧野富太郎』(佐川町立青山文庫)
『花と恋して』(上村 登 著)
『MAKINO』(記者・竹内 一/高知新聞社編)
「もっと草花を楽しむ講座(導入編)」高知県 観光振興部 地域観光課主催
「もっと草花を楽しむ講座(導入編2)」高知県 観光振興部 地域観光課主催
※年代やご年齢が資料によって多少違う部分もありましたので、年齢等は書籍『MAKINO』の略年譜を参考にさせていただきました。